特別保存刀剣
『信濃国寿昌 天保十五年二月日』
(山浦真雄)
刀剣種別 『刀・katana』
銘 太刀銘『信濃国寿昌 天保十五年二月日』
『Shinano koku TOSHIMASA (Yamaura SANEO)』
日本刀 鑑定書『日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣』 NBTHK 『Tokubetsu Hozon Paper』
時代『天保十五年』 Production age 『AD1844』
信濃国寿昌(山浦真雄)は、文化元年信濃国佐久郡赤岩に生まれ、その十年後に弟の清麿が生まれる。天保二年から『寿昌』銘をきり、弘化四年八月に『正雄』と改名、嘉永四年八月より『真雄』と銘す。山浦家は元々武田勝頼の家臣である山浦常陸助信宗が、勝頼の死後赤岩に難を避け土着し、後に郷士となった武士の家系である。信元の代より小諸藩に属して赤岩の名主を務め、これが真雄の代まで引き継がれた。真雄・清麿共に剣の道に励み相当の使い手であり、真雄は一刀流・心形流・直心流の剣術も学んでいる。真雄は自分にとっての理想の刀を作るべく「おのれ古伝の鍛法をさぐり、自づから造りて佩刀をなさんとおもひ立て(老の寝覚より)」と、武士でありながら刀鍛冶を志した。彼らの作品が何れも重心が良く使いやすい点からも、相当な使い手であったことが推量しても想像できる。天保三年真雄二十九歳の時に、刀工の道に専念するべく御役御免を願い出ており、同時期江戸に於いて水心子正秀と交流があったものとみられている。嘉永元年四月に上田藩主である松平伊賀守に命じられ、上田の鍛冶町に居を転じ作刀、嘉永六年に松城の真田家から招聘される。
真雄いわく切れ味において『古今を通じて自分の作品の上に出るものはない』と大変な自負に聞こえるが、嘉永六年におこなわれた真田家試刀会荒試しの成績から、それがかならずしも誇大でないことが証明された。真田家に納められていた大慶直胤の刀がほとんど四・五太刀目に折れているのに対して、真雄の刀は抜群の成績を残し40回を上回る打ち込みに耐えた。34太刀までは通常の「切りつけ試し」であったがそれ以降は完全な「折り試し」であったそうで、最後は長さ五尺五寸・重さ八百三十匁の鉄杖を以て、刀で一番弱い棟や鎬部を強打して折ったそうである。その時の伝承が[古老証話]にあり、試し手はほとんど躍起になって息を切らせて殴り続けたといい、「その折の模様は洵に峻烈を極め、見物の諸士も進行につれて真剣そのもの。手に汗を握るが如く、肌に粟を生ぜしが如し」との記述がある。これが刀剣史上に語り継がれるかの有名な[松代藩荒試し]である。ちなみに荒試しの日に真雄は、成績が不首尾の場合はその場で割腹の覚悟で下に白装束をまとっていたと言われている。武将の血を引くとは言え死を賭して自己の責を負わんとする心構えは、作刀に悩み自刃した清麿と同じであり、その苛烈さはさすがに兄弟ある。
この刀は真雄が四十一歳(天保十五年)の作であり、寿昌銘から正雄銘に変わる直前の作であり、清麿の生家で造られた小諸打である。鍛えは小板目つみごころに杢目が交じり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、刃文は互の目乱れに丁字風の刃・尖り刃など交じり、沸が厚くつき、所々荒めの沸を交え、湯走り、金筋・砂流しが幾重にも重なり頻りにかかり、匂い口が明るく冴え、帽子は乱れ込み小丸に長く返るなど、出来はまさに清麿を髣髴せしめるものがあり、真雄中屈指の傑作である。なお同作中、信濃国寿昌銘の刀は僅少であり、資料的にも大変貴重である。
『形状』鎬造、庵棟、身幅広め、元先の幅差少しつき、反り深くつき、中鋒延びごころ。
『鍛』小板目肌よく詰み杢目交じり、地沸微塵に厚くつき、地景頻りに入りる。
『刃文』腰開きの互の目から焼きだし、次第に焼きの高い互の目乱れに丁字風の刃・尖り刃など交じり、足長くよく入り、沸が厚くつき、所々荒めの沸を交え、湯走り、金筋・砂流しが幾重にも重なり長く頻りにかかり、匂い口が明るく冴え。
『帽子』乱れ込み小丸、返り深い。
『茎』生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔一、太刀銘に長銘と裏に年紀あり。
『附』白鞘
『寸法(Size)』
長さ(Blade length)70.2cm、反り(Sori) 20cm、
元幅(Width of moto)3cm、先幅(Width of saki)2cm、
元重(Thickness of moto)0.8cm 先重(Thickness of saki)0.45cm
価格 ¥7,800,000- (税込価格 -Tax-included pric- ¥8,580,000)