特別保存刀剣『肥前国住近江大掾藤原忠広』

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更新日 2017-11-25 | 作成日 2008-07-02

特別保存刀剣『肥前国住近江大掾藤原忠広』

刀剣種別 『刀』  『katana』
銘 『肥前国近江大掾藤原忠広』
『Hizen koku jyu Oumidaijyou Fujiwara TADAHIRO 』
日本刀 鑑定書『日本美術刀剣保存協会 特別保存 刀剣』 NBTHK 『Tokubetsu Hozon Paper』
時代『承応〜明暦頃』 Production age 『AD1652〜』
新刀位列『新刀上々作』
切味位列『大業物』

価格 230万円 インターネット特別価格です (2,300,000yen)

肥前の国には古刀期では見るべき刀工が少ない。しかし桃山時代に至って忠吉の出現で、忠吉一族一門が繁栄をきわめた。かれらは肥前佐賀の城主鍋島勝茂侯のお抱え工たちであり、橋本新左衛門尉忠吉(初代 肥前国忠吉)を祖として、その一族門葉も栄えた。肥前刀工の中でも初代忠吉、近江大掾忠廣、陸奥守忠吉、初代正廣、初代行廣の5人が特に技量が高く、肥前刀の五大刀工と言えよう。
近江大掾忠廣は初代忠吉の嫡男として生れ、橋本平作郎と称したが、のち新左衛門尉と改めた。寛永九年に父である初代忠吉と死別した時は十九歳であったが、同九年からの作刀が見られる。これは元来刀匠としての天文と伎倆を持ち合わせていた事はもちろんであるが、初代忠広当時の弟子達の協力によって彼を助けたことも大きな力となっている。寛永十八年七月に近江大掾を受領している。二代忠広は後妻の子であり、その為か性格がおとなしく作柄が優しく品が良い。生涯忠吉を名乗る事をしなかったのはそのせいもあってのことであろう。嫡子である新三郎が陸奥大掾を受領して、忠吉を襲名したのは万治三年で二十四歳であった。父の近江大掾忠広が四十七歳であり、肥前鍛冶の棟梁として最盛の時であり、三代をして忠吉銘を復活せしめたのも、近江大掾の権威と意思に依ったものであり、二代忠広が忠吉を名乗る意思が無かったことがうかがえる。優しい性格とはうらはらに、律儀の点では初代忠吉にも勝る節度の厳しい人格者であったことが窺われる。元禄六年に享年八十歳で没した。
この作品は、小板目肌がよくつみ、地沸微が塵に厚くつき、米糠肌状の肌合いとなり、地景が細かによく入り、刃文は丁字乱れに頭の丸い互の目・小湾れ・重花丁字が逆ごころに交じり、忠広独特の丸いアブの目飛焼きを交え、同工としては比較的珍しい作柄である。刃文の乱れの谷に沸が凝る態などには、肥前刀の特色が看て取れる。覇気に充ちた作刀で、出来が優れており、彼の作域を研究するうえで資料的にも頗る貴重である。


『形状』鎬造、庵棟、身幅尋常、元先の幅差少しくつき、踏張りごころがり、反り深めにつき、中鋒。
『鍛』小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつき、米糠肌状の肌合いとなり、地景細かに入り、かね冴える。
『刃文』小乱れに表裏共小さな玉を一つ焼きだし、腰開きの互の目となって、丁字乱れに頭の丸い互の目・小湾れ・重花丁字が逆ごころに交じり、丸いアブの目飛焼きを交え、上半は焼き高く華やかに乱れ、足・葉入り、匂い深く、沸厚くつき、所々粗めの沸を交え、砂流しかかる。
『帽子』小乱れ、掃掛けながら、小丸返り僅か。
『茎』生ぶ、鑢横切り、先入山形、目釘孔二。
『附』白鞘

『寸法(Size)』
長さ(Blade length)72.8cm、反り(Sori)1.4cm、
元幅(Width of moto)3cm、先幅(Width of saki)2cm、
元重(Thickness of moto)0.7cm 先重(Thickness of saki)0.4cm

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