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更新日 2017-11-25 | 作成日 2008-07-02

特別保存刀剣肥前国河内大掾藤原正広

刀剣種別 『刀』  『katana』
銘 『肥前国河内大掾藤原正広』
『Hizen koku Kawachidaijyou Fujiwara MASAHIRO 』
日本刀 鑑定書『日本美術刀剣保存協会 特別保存 刀剣』 NBTHK 『Tokubetsu Hozon Paper』
時代『寛永頃』 Production age 『AD1628〜』
新刀位列『新刀上作』
切味位列『業物』

ご成約済です ありがとうございました(sold out)

肥前の国には古刀期では見るべき刀工が少ない。しかし桃山時代に至って忠吉の出現で、忠吉一族一門が繁栄をきわめた。かれらは肥前佐賀の城主鍋島勝茂侯のお抱え工たちであり、橋本新左衛門尉忠吉(初代 肥前国忠吉)を祖として、その一族門葉も栄えた。肥前刀工の中でも初代忠吉、近江大掾忠廣、陸奥守忠吉、初代正廣、初代行廣の5人が特に技量が高く、肥前刀の五大刀工と言えよう。
河内大掾正広(初代正廣)は初代忠吉の子吉信の長男である。 父の初銘を採って佐伝二郎と命名され、のち弥兵衛と改めた。初代忠吉から初孫として大いにかわいがられたが、それはただ単に孫というだけではなく、利発な子であり将来を多いに嘱望されたからである。元和五年、十七歳の時に最初の自身作を藩主鍋島勝茂に献上したところ、その出来映えに感心した藩主が、褒美と禄を取らせお留め鍛冶にした。お留め鍛冶とは将軍家へ刀を献上する為に、一般へ流布するのを防止する為の防止策であり、自国の藩士はもとより商売用の数打ちや、弟子の刀に焼き入れすることも禁じられた厳しいものである。寛永元年に祖父初代忠吉が名を忠広と改め、佐伝二郎が忠吉二代目を継承した。それを記念して相州風の刀を打って献上したところ、相州正広の如き出来であったことから、藩主の命により正広の銘を拝領し改銘した。これは当時相州伝至上主義の時代であった為に、地味な肥前刀では贈り物としては弱かったという事情もあったのであろう。藩主勝茂から正広への注文書には『則重などの如く沸多く、いかにも細かに流れにつづき候様に焼く可き事』と書き記されており、則重写しの相州伝を注文されていたことが窺える。そのこともあってか、初代正広は近江大掾忠広よりも石高も多く社会的に上位にあり、その評判は正広を圧倒したと伝うが、正広は近江大掾忠広を助けて宗家に尽くした。
この作品は、地鉄は小板目が美しく詰み潤いがあり、肥前刀でありながら相州伝風の華やかな乱れ刃を焼くは、藩主鍋島勝茂の注文打ちであることを窺わせる。沸の美しさは肥前随一の美しさであり、正広の本領を発揮した最高傑作である。刃区から4センチ程生ぶ刃が残り、状態は打ち下ろしの健全さを保つ。おそらく大名家の献上刀であろう。

『形状』刃区から4センチ程生ぶ刃が残り、鎬造、庵棟、反り尋常、中鋒、姿豪壮。
『鍛』小板目肌地沸よくつき、叢なく肌詰みて潤いあり。
『刃文』互の目乱れ、沸深く砂流し細かに入り、足太く入り、葉頻りに交じり、刃明るく冴え、覇気のある乱れは相州伝風となる。
『帽子』直先沸深く小丸に品よく返る。
『茎』生ぶ、鑢大筋違い、小尻山形、目釘孔一。
『附』白鞘、拵

『寸法(Size)』
長さ(Blade length)75.9cm、反り(Sori)1.4cm、
元幅(Width of moto)3.2cm、先幅(Width of saki)2.1cm、
元重(Thickness of moto)0.7cm 先重(Thickness of saki)0.45cm

日本刀 肥前国河内大掾藤原正広.jpg

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